<さらざんまい1話感想・考察>㋐=対象a説
先ほど「さらざんまい」第1話をリアルタイムで観ることができたので、考察というか、なんとなく㋐について思いついたことがあったのでメモ程度に書き殴っていきたい思います(と言ってもまだ1話だから間違っててもご容赦ください)
㋐=対象a説
第1話でやたらと出てきた記号として㋐がある。劇中での㋐の使われ方を見ていて、これは哲学者・精神分析学者のジャック=ラカンが提唱した対象a(読み:タイショウアー)のことなのではないか?と思った。
「対象a」とは端的に言うと「欲望の原因」(斎藤環『生き延びるためのラカン』筑摩書房(2012)参照)。
あるいは
他人の中に埋め込まれ、私にとって非人間的で疎遠で、鏡に映りそうで映らず、それでいて確実に私の一部で、私が私を人間だと規定するに際して、私が根拠としてそこにしがみついているようなもの、これをラカン の用語で「対象a」と言う。対象aの代表格は、乳房、糞便、声、まなざしの四つ組である。
そもそもこの作品はラカンの思想を前提にして考えるとかなりわかりやすくなるんじゃないかと思う。予告で出てきた「欲望の欲望」という概念も、「欲望は他人の欲望である」と言うラカンの有名な命題と類似するし、斎藤環『生き延びるためのラカン』筑摩書房(2012)で述べられている次の記述はかなり「さらざんまい」の主題と近いんじゃないか
……欲望は他人の欲望だ。僕はこれを言い換えて、「欲望は自分の中から勝手に芽生えてくるものじゃない。他人からもらうものだ」と説明することが多い。欲望の対象がリアルであるためには、同じようにそれを欲しがる隣人の存在が必要なんだ。そして、ひきこもり青年たちには、そういう存在が欠けている。だから、欲望の追求のために、わざわざ行動を起こす気になれないんだろう。(27頁)
携帯電話やインターネットは、あらゆる人に、多様なコミュニケーション・ネットワークに参加するチャンスを与える。そう、もはやコミュニケーションに辺境はない。誰もが、その意志さえあれば、他人とつながることができる。この変化は、案外決定的なものかもしれない。
社会が成熟していく段階の中に「物質的に満たされても、心が満たされない」という過渡的な状況がある。でも、これは要するに、ネットワークが不備な時代には、コミュニケーション弱者の孤独がいっそう深まりやすくなるということだ。現代のように、ネットワークが幾重にも張りめぐらされて以降は、こうした孤独は意志的に選択されなければ成立しなくなってくる。(28ー29頁)
コミュニケーションのネットワークが発達してみて、初めてわかったこと。それは、コミュニケーションだけで満たされてしまう人たちが大量に存在するという事実だ。[中略]そうなると、いよいよ「欲望の無根拠性」という、ラカン的な事態がはっきりみえてくる。(29頁)
いろんな進歩だの進化だのの結果、僕たちは物質的な貧困、コミュニカティブな貧困、その双方から急速に解放されつつある。それとともに、僕たちの欲望は限りなく精神分析的なものになるだろう。そう、フロイトが言ったように、それは「満たされない欲望を持ちたいという欲望」なんだ。「ほしいものが、ほしい」っていうのは、そういうこと。今や僕たちが求めるのは「満たされない心」そのものだ
幾原邦彦は、これまで社会にうまく溶け込めない青少年たちの問題を描いてきた。輪るピングドラムでは、無条件の愛情を受けることなく育ち、社会から承認されず、透明な存在(酒鬼薔薇聖斗)=入れ替え可能な存在になってしまう若者を、そしてユリ熊嵐では、同調圧力の中で透明になってしまう少女たちを。ならば今回のさらざんまいは、SNSの接続過剰によって、欲望にうまく対処できなくなってしまった若者たち、が描かれるといったところだろうか。
あと眉唾な議論だけど、ニコニコ百科辞典で「対象a」の頁を調べると、前述の引用とともにこんな記述がされていた。
他人の中に埋め込まれ、私にとって非人間的で疎遠で、鏡に映りそうで映らず、それでいて確実に私の一部で、私が私を人間だと規定するに際して、私が根拠としてそこにしがみついているようなもの、これをラカンの用語で「対象a」と言う。対象aの代表格は、乳房、糞便、声、まなざしの四つ組である。
引用元 : 新宮一成著 『ラカンの精神分析』 1995 講談社 (講談社現代新書)
(中略)
ここでひとつのイメージ
番町皿屋敷
こ、これは!?
さらざんまいの元ネタは番町皿屋敷だった?
ということは㋐=皿=対象aの可能性が微レ存?
以上。
まあ最終回まで見てから見返したら的外れに思うかもしれないけど、1話ごとにああだこうだ考察するのも楽しみの一つですよね