「さらざんまい」試論ーー資本主義と「さらざんまい」Part1「輪るピングドラム」との比較


「さらざんまい」を資本主義との関係によって語っていきたいと思う。PART1は「輪るピングドラム」との比較。本作において新たに提起された「欲望」という概念を、今までの幾原作品(主にピングドラム)と比較しつつ、位置付けていきたい。

(目次)資本主義=損得勘定を前提にしたつながりを要請/損得勘定は「透明な存在」を生み出す/「透明な存在」に対する「輪るピングドラム」的処方箋=「愛」による無条件の存在肯定/「愛」という処方箋の弱点/「さらざんまい」における欲望の導入=他者(社会や中間項=象徴界)の導入

 

 資本主義=損得勘定を前提にしたつながりを要請

社会学者テンニースによれば、人間のつながり方には2通りあるという。すなわち「ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」だ。「ゲマインシャフト」は本質的な意思(思い)によってつながっている家族や共同体といった社会体であり、「ゲゼルシャフト」は選択的な意思(損得勘定)によってつながっている社会体である。資本主義社会は後者であり、資本主義が発達する時、人々は、生活の至る場面で、自分にとって損か得かを考慮しながら人と付き合うようになる

 

損得勘定は「透明な存在」を生み出す

 資本主義社会が損得勘定を前提にしたつながりを要請するとき、人々は「入れ替え可能な存在」となる。例えば、会社があなたを「必要」という時、必要なのはあなたの能力であって、あなたの存在自体ではない。逆に言えば、同じ能力さえあれば、あなたである必要はなく、誰でも良いということになる。あなたは会社を構成する歯車の一部品に過ぎないのであり、交換可能なのだ。

 入れ替え可能・交換可能となった人々にとって問題なのは、「自分の存在そのものを肯定してくれるものが何もない」という空虚さであり、圧倒的な「承認不足」である。

 酒鬼薔薇聖斗(1997年神戸連続児殺害事件容疑者)は、そんな空虚な存在となった人間のことを「透明な存在」と呼んだ。この概念は当時の若者たちに一定の共感を与えたそう(宮台真司『「透明な存在の不透明な悪意』参照)だが、それだけ「承認されない自分」を感じていた人が多かったのだろう。

 

「透明な存在」に対する「輪るピングドラム」的処方箋=「愛」による無条件の存在肯定

この世界は間違えている。勝ったとか負けたとか、誰の方が上だとか下だとか、儲かるとか儲からないとか、認められたとか認めてくれないとか、選ばれたとか選ばれなかったとか、奴らは、人に何かを与えようとはせず、いつも求められることばかり考えている。この世界はこんなつまらない、きっと何者にもなれないやつらが支配している。もうここは、氷の世界なんだ

輪るピングドラム』20話 高倉剣山

  幾原邦彦輪るピングドラム」(2011)では、資本主義社会の発展と承認不足によって「透明な存在」になった子供達を描き、その処方箋としての「愛」の循環が描かれている

 以前の記事でも書いたが、ピアノが弾けるという才能によってしか愛されなかった多蕗桂樹は、ピアノが弾けなくなると、自分を承認してくれる人を完全に失い、「透明な存在」となった。桂樹を助けに来た桃果は桂樹の存在自体を認め、「愛」を与えた。

 つまり「ピングドラム」では、入れ替え可能となった存在=透明な存在を救済するために、存在そのものの肯定である「愛」を導入したのだ。「愛」を与えるという行為は、無償の行為であり、損得勘定とは真逆のものである。故に、明らかに利他的行動である「自己犠牲」も愛の究極の形として作中で讃えられることとなる。

 

このような視点で「さらざんまい」を見ることは可能だが、しかし「さらざんまい」では、「愛」の他に「欲望」を重要な概念として登場させていたり、「自己犠牲」が茶化されていたりするので、「さらざんまい」はこの「愛」の処方箋を批判的に拡張していると思われる。では「ピングドラム」で提示された「愛」という処方箋の弱点とは何か。

 

「愛」という処方箋の弱点

 「愛」という処方箋の批判をするならば、それはセカイ系批判と並行するだろう。

 セカイ系とは、ゼロ年代批評において、「主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(「きみとぼく」)を、社会や中間項を挟み込むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な物語に直結させる想像力」(東浩紀であり、しばしば象徴界(社会や中間項)の衰退とともに語られた。このセカイ系に対する批判としてよくあるのが、結局主人公は、社会や中間項といった大文字の他者を無視して、自分の殻に閉じこもっているだけではないか、他者のコミュニケーションを行おうとしないのは問題ではないか(例えば宇野常寛ゼロ年代の想像力』を参照)といったものだ。

 「ピングドラム」は主人公とヒロインの二者関係ではないし、特に物語の最後の方については、厳密にセカイ系と言えるかは微妙だが、自分を全肯定してくれる人に「愛」をもらい承認してもらう処方箋だけでは、結局その相手に依存して、他者と向き合うことはできない。それは母親から自立できない子供のように、成熟することを拒否しているのだ。子供が成熟するためには、自分を全肯定してくれる母親から一旦離れて、その安心感を喪失し、象徴界(社会や中間項等の他者)に参入する必要がある。(実はピングドラムにおいて、このことは描かれている。桂樹やゆりは、大人になってもなお桃果を忘れることができず、故に成熟することができていない)

 

「さらざんまい」における欲望の導入=他者(社会や中間項=象徴界)の導入

 「欲望」を考えることは、「他者」を考えることに等しい。なぜなら欲望とは他者と接しているから発生するもの、他者から与えられるものであり(ラカン「欲望は他者の欲望である」以前の記事参照)、また欲望があるから他者と接しようと思うからである。「さらざんまい」においては主人公たちの欲望の交換などによって描かれている。

 「さらざんまい」では、「ピングドラム」の桃果のように、完全に利他的なキャラは出てこない(春河は該当する可能性あるが)。どのキャラも利己的な感情を持っていて、しかしその欲望のために仲間と向き合い、時にぶつかりながら、仲間を受け入れるというプロセスを踏む。すなわち、主人公たちは象徴界に参入し(成熟し)、自己を確立した状態で「つながる」ことが出来る

 このように、「さらざんまい」はこれまでの「愛」に加えて、「欲望」を導入することで、他者と向き合い、自己を確立することまで描こうとしているのではないだろうか。(「さらざんまい」では春河の話(6話)まではピングドラム的な「愛」の話として解釈可能だが、その後はやはり「欲望」の話として理解する必要がある。)

「忘れないで。喪失の痛みを抱えてもなお、欲望をつなぐものだけが、未来を手にできる」

「わかったよ。ぼくが選ぶんだ。ぼくは、ぼくの選んだものを信じるよ。大切な人がいるから、悲しくなったり、嬉しくなったりするんだね。そうやってぼくらは、つながっているんだね」

「さらざんまい」最終回 

人間は喪失を経験することで成熟することができる(象徴界への参入)。その際、自分は何もせず、絶対的に自分を肯定してくれる相手に依存するのではなく、他者と向き合って、主体的に「選択」していく必要が生まれる (これは宇野常寛ゼロ年代の想像力』のいう「ひきこもり」から「決断主義」へのシフトと同義である)。その際、欲望をあきらめないことが重要なのだ

 

ラカン等については過去記事参照

「さらざんまい」3話までの考察ーータークル・ラカン・芥川・ニーチェ・フロム・ナーガールジュナ - 妃露素ふぃあの日記

 

 

参考文献

東浩紀 『動物化するポストモダン』『ゲーム的リアリズムの誕生』『美少女ゲームの臨界点』『セカイからもっと近くに』

宇野常寛ゼロ年代の想像力

宮台真司『透明な存在の不透明な悪意』

テンニース『ゲマインシャフトゲゼルシャフト

 

参考ブログ・ツイート 

西部邁VS宮台真司 - ニコニコ動画

「透明な存在」を「いてもいなくても、ぼくでなくても、ぼくであっても、どうでもいいような存在」=(「入れ替え可能な存在」)と表現

 

輪るピングドラム_考察-『こどもブロイラー』から『透明な存在』を考える : 他でもないわたし、他でもないあなた、碌でもないせかい。

「こどもブロイラー」と「透明な存在」を考察するうえで、 会社において人は代替可能な部品であると表現

 

才華@zaikakatoo氏のツイート

「さらざんまい」が他者との共存を視野に入れたという鋭い指摘

 

アイキャッチ画像

さらざんまい "つながるPV" 完全版 https://www.youtube.com/watch?v=p_1QGHXyK14

 

 あとがき

あまりまとまってないけど、とりあえず鑑賞し終わったばっかりのモチベーションがある時に書いておこうと思って書きました。色々と修正する可能性ありです。

PART2は「搾取」をテーマに、マルクスドゥルーズ=ガタリを引用する形で書こうと思ってます。最近忙しいのですぐには無理かもしれませぬ