「さらざんまい」試論ーー資本主義と「さらざんまい」Part1「輪るピングドラム」との比較
「さらざんまい」を資本主義との関係によって語っていきたいと思う。PART1は「輪るピングドラム」との比較。本作において新たに提起された「欲望」という概念を、今までの幾原作品(主にピングドラム)と比較しつつ、位置付けていきたい。
(目次)資本主義=損得勘定を前提にしたつながりを要請/損得勘定は「透明な存在」を生み出す/「透明な存在」に対する「輪るピングドラム」的処方箋=「愛」による無条件の存在肯定/「愛」という処方箋の弱点/「さらざんまい」における欲望の導入=他者(社会や中間項=象徴界)の導入
資本主義=損得勘定を前提にしたつながりを要請
社会学者テンニースによれば、人間のつながり方には2通りあるという。すなわち「ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」だ。「ゲマインシャフト」は本質的な意思(思い)によってつながっている家族や共同体といった社会体であり、「ゲゼルシャフト」は選択的な意思(損得勘定)によってつながっている社会体である。資本主義社会は後者であり、資本主義が発達する時、人々は、生活の至る場面で、自分にとって損か得かを考慮しながら人と付き合うようになる
損得勘定は「透明な存在」を生み出す
資本主義社会が損得勘定を前提にしたつながりを要請するとき、人々は「入れ替え可能な存在」となる。例えば、会社があなたを「必要」という時、必要なのはあなたの能力であって、あなたの存在自体ではない。逆に言えば、同じ能力さえあれば、あなたである必要はなく、誰でも良いということになる。あなたは会社を構成する歯車の一部品に過ぎないのであり、交換可能なのだ。
入れ替え可能・交換可能となった人々にとって問題なのは、「自分の存在そのものを肯定してくれるものが何もない」という空虚さであり、圧倒的な「承認不足」である。
酒鬼薔薇聖斗(1997年神戸連続児殺害事件容疑者)は、そんな空虚な存在となった人間のことを「透明な存在」と呼んだ。この概念は当時の若者たちに一定の共感を与えたそう(宮台真司『「透明な存在の不透明な悪意』参照)だが、それだけ「承認されない自分」を感じていた人が多かったのだろう。
「透明な存在」に対する「輪るピングドラム」的処方箋=「愛」による無条件の存在肯定
この世界は間違えている。勝ったとか負けたとか、誰の方が上だとか下だとか、儲かるとか儲からないとか、認められたとか認めてくれないとか、選ばれたとか選ばれなかったとか、奴らは、人に何かを与えようとはせず、いつも求められることばかり考えている。この世界はこんなつまらない、きっと何者にもなれないやつらが支配している。もうここは、氷の世界なんだ
『輪るピングドラム』20話 高倉剣山
幾原邦彦「輪るピングドラム」(2011)では、資本主義社会の発展と承認不足によって「透明な存在」になった子供達を描き、その処方箋としての「愛」の循環が描かれている。
以前の記事でも書いたが、ピアノが弾けるという才能によってしか愛されなかった多蕗桂樹は、ピアノが弾けなくなると、自分を承認してくれる人を完全に失い、「透明な存在」となった。桂樹を助けに来た桃果は桂樹の存在自体を認め、「愛」を与えた。
つまり「ピングドラム」では、入れ替え可能となった存在=透明な存在を救済するために、存在そのものの肯定である「愛」を導入したのだ。「愛」を与えるという行為は、無償の行為であり、損得勘定とは真逆のものである。故に、明らかに利他的行動である「自己犠牲」も愛の究極の形として作中で讃えられることとなる。
このような視点で「さらざんまい」を見ることは可能だが、しかし「さらざんまい」では、「愛」の他に「欲望」を重要な概念として登場させていたり、「自己犠牲」が茶化されていたりするので、「さらざんまい」はこの「愛」の処方箋を批判的に拡張していると思われる。では「ピングドラム」で提示された「愛」という処方箋の弱点とは何か。
「愛」という処方箋の弱点
「愛」という処方箋の批判をするならば、それはセカイ系批判と並行するだろう。
セカイ系とは、ゼロ年代批評において、「主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(「きみとぼく」)を、社会や中間項を挟み込むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な物語に直結させる想像力」(東浩紀)であり、しばしば象徴界(社会や中間項)の衰退とともに語られた。このセカイ系に対する批判としてよくあるのが、結局主人公は、社会や中間項といった大文字の他者を無視して、自分の殻に閉じこもっているだけではないか、他者のコミュニケーションを行おうとしないのは問題ではないか(例えば宇野常寛『ゼロ年代の想像力』を参照)といったものだ。
「ピングドラム」は主人公とヒロインの二者関係ではないし、特に物語の最後の方については、厳密にセカイ系と言えるかは微妙だが、自分を全肯定してくれる人に「愛」をもらい承認してもらう処方箋だけでは、結局その相手に依存して、他者と向き合うことはできない。それは母親から自立できない子供のように、成熟することを拒否しているのだ。子供が成熟するためには、自分を全肯定してくれる母親から一旦離れて、その安心感を喪失し、象徴界(社会や中間項等の他者)に参入する必要がある。(実はピングドラムにおいて、このことは描かれている。桂樹やゆりは、大人になってもなお桃果を忘れることができず、故に成熟することができていない)
「さらざんまい」における欲望の導入=他者(社会や中間項=象徴界)の導入
「欲望」を考えることは、「他者」を考えることに等しい。なぜなら欲望とは他者と接しているから発生するもの、他者から与えられるものであり(ラカン「欲望は他者の欲望である」以前の記事参照)、また欲望があるから他者と接しようと思うからである。「さらざんまい」においては主人公たちの欲望の交換などによって描かれている。
「さらざんまい」では、「ピングドラム」の桃果のように、完全に利他的なキャラは出てこない(春河は該当する可能性あるが)。どのキャラも利己的な感情を持っていて、しかしその欲望のために仲間と向き合い、時にぶつかりながら、仲間を受け入れるというプロセスを踏む。すなわち、主人公たちは象徴界に参入し(成熟し)、自己を確立した状態で「つながる」ことが出来る。
このように、「さらざんまい」はこれまでの「愛」に加えて、「欲望」を導入することで、他者と向き合い、自己を確立することまで描こうとしているのではないだろうか。(「さらざんまい」では春河の話(6話)まではピングドラム的な「愛」の話として解釈可能だが、その後はやはり「欲望」の話として理解する必要がある。)
「忘れないで。喪失の痛みを抱えてもなお、欲望をつなぐものだけが、未来を手にできる」
「わかったよ。ぼくが選ぶんだ。ぼくは、ぼくの選んだものを信じるよ。大切な人がいるから、悲しくなったり、嬉しくなったりするんだね。そうやってぼくらは、つながっているんだね」
「さらざんまい」最終回
人間は喪失を経験することで成熟することができる(象徴界への参入)。その際、自分は何もせず、絶対的に自分を肯定してくれる相手に依存するのではなく、他者と向き合って、主体的に「選択」していく必要が生まれる (これは宇野常寛『ゼロ年代の想像力』のいう「ひきこもり」から「決断主義」へのシフトと同義である)。その際、欲望をあきらめないことが重要なのだ。
ラカン等については過去記事参照
「さらざんまい」3話までの考察ーータークル・ラカン・芥川・ニーチェ・フロム・ナーガールジュナ - 妃露素ふぃあの日記
参考文献
東浩紀 『動物化するポストモダン』『ゲーム的リアリズムの誕生』『美少女ゲームの臨界点』『セカイからもっと近くに』
宮台真司『透明な存在の不透明な悪意』
参考ブログ・ツイート
「透明な存在」を「いてもいなくても、ぼくでなくても、ぼくであっても、どうでもいいような存在」=(「入れ替え可能な存在」)と表現
輪るピングドラム_考察-『こどもブロイラー』から『透明な存在』を考える : 他でもないわたし、他でもないあなた、碌でもないせかい。
「こどもブロイラー」と「透明な存在」を考察するうえで、 会社において人は代替可能な部品であると表現
才華@zaikakatoo氏のツイート
今までたった一つの特別な「愛」(ピンドラ)とか、他人じゃなくて自分にとってだけ大事な「スキ」(ユリ熊嵐)を見つけることをある種の理想にしてきたイクニの「愛」の概念が、「つながる」=「他者と欲望を共有したり交換しあったりする」ことを覚えた。他者との共存も視野に入ってる#さらざんまい
— 才華 (@zaikakotoo) 2019年6月20日
「さらざんまい」が他者との共存を視野に入れたという鋭い指摘
アイキャッチ画像
さらざんまい "つながるPV" 完全版 https://www.youtube.com/watch?v=p_1QGHXyK14
あとがき
あまりまとまってないけど、とりあえず鑑賞し終わったばっかりのモチベーションがある時に書いておこうと思って書きました。色々と修正する可能性ありです。
PART2は「搾取」をテーマに、マルクスとドゥルーズ=ガタリを引用する形で書こうと思ってます。最近忙しいのですぐには無理かもしれませぬ
映画『海獣の子供』が傑作だった【感想】
米津玄師の「海の幽霊」効果で話題になっているアニメーション映画『海獣の子供』鑑賞してまいりました。公開日初日だからか、平日の朝一でもかなり客が入っていました。客層は割と広めですが、若い人が多かった印象です。
ネタバレ防止&原作未読につき、ストーリーには触れないで、ざっくりした感想を書きます。
大切なことは、セリフでは言わない
本作は、最近の他の商業アニメ映画と比べると、セリフ、特に説明ゼリフが少ないと感じる。近年の映像作品は、何でもかんでもセリフで説明してしまうものが多いが、この作品はそれとはまったく対照的な作品だ。セリフで状況説明をすること避け、なるべく映像で伝えようという意思がみなぎっているし、特に後半は、発せられるセリフは概念的なものにとどまり、観客に対して物語や世界を考えさせようとしている。やはりこれは、本作の一つのテーマである「大切なことは言葉にならない」を演出で行った結果だろう。本作の後半では、ほとんどセリフを発しないまま数分間経ったりするが、優れた映像と音楽・音響によって全く退屈することはない。物語にとって大切なことは「映像が」教えてくれる。「説明をしすぎないこと」は評価が分かれがちなポイントだが、映像作品はやはり映像で語りかけるべきものだと思っているので、個人的には好きだ。
美術が素晴らしい
木村真司氏の背景美術については、今までの作品で建築や都市の描写が卓越していることはわかっていたが、本作では特に海の描写・空(宇宙)の描写、魚をはじめとする生物の描写が非常に優れていた印象。海や宇宙といった自然の壮大さを感じさせるシネマトグラフィックなカットは、我々に自然に対する畏怖を感じさせるほどであり、生物描写の生々しさは、アニメーションで生命の躍動(アニマ)を伝達することに完全に成功している。
また、CGの取り入れ方はとても効果的でありながら、手描きのエフェクトを入れるなどして、絵が硬くならないよう工夫がいたるところでなされているのも特徴だ。
これらの背景美術は、単にそれ自体として優れているだけでなく、後述するテーマ性と一致している点も評価すべきポイントだ。
本作のテーマ性
人間は混沌たる自然に秩序を見出すために、言葉を用いた。言葉によって世界を明快に理解する術を得たのである。だが、その理解は完全なものではない。言葉による事象の説明は、多くの物事の捨象によって得られた抽象の結果でしかない。
詩人や歌人は、例えば宮沢賢治がそうであったように、自然の様々な出来事を、できる限りそのまま伝えるために言葉を紡ぎ出す。しかし、どれだけ優れた詩や歌も(劇中で言われたように)、結局は自然を表す一部でしかありえない。
ゆえに、言葉によって、あるいは抽象によって、完全に自然を把握することは不可能である。しかし、西洋的な科学は、自然を理解しようと努める。
この映画では、自然は理解するべき客体として描かれていない。例えば作中では「宇宙の90パーセントは暗黒物質でできており、暗黒物質は未知のものであるのだから、我々はちっとも世界を理解できていない」ことが語られている。本作の演出から感じられるのは、自然は理解すべき客体ではなく、むしろ畏敬の対象であるということだ。
しかしながら、自然を理解はできなくとも感じることはできるとは言っているように見える。それは、「宇宙も我々も、同じものでできている」という一元論的な思想によって、あるいは、「世界と自分には同じようなメカニズムが働いている」ことの自覚によって、である。個人的に手塚治虫が『火の鳥 未来編』で表明した、仏教的な自然観に近いと思った
監督よくやった!
渡辺歩監督にとって、あるいは制作会社、制作委員会にとって本作はチャレンジングで高リスクな作品だったに違いない。ヒットにつながりそうな恋愛要素や観客にとって「親切」で「わかりやすい」シナリオは切り捨て、ひたすら映画としての完成度、芸術性を追求している。このような作品作りに対する真摯な姿勢は何よりも高く評価されるべきだろう。「ストーリーがよくわからない」「泣けない」と言ったレビューが多数現れるとは思うが、気にする必要はない。本作のような作品を見ると、まだ日本のアニメも捨てたもんじゃねえなと思える。今後の渡辺歩監督に期待。
あと原作未読なので、読みたいと思う。原作の神作画あっての映画版っぽいので、必読じゃないか。
個人的なメモ(主に演出についての)
- 初めの方の主人公が走るシーンのCGが良かった(モデリング、テクスチャリング等大変そうだけど、大量の情報量が一気に処理されるのはやはり気持ち良い)
- 水族館の裏側が観れたのが面白かった。普段観れないところが観れた時のワクワク感
- 海の幽霊のシーンの色彩(虹色)が綺麗だった
- 赤い傘はやはり映像的に映えるなあと思った。傷物語もそうだったが。だけど、明度が低い色が多めの今作においては、捉えようにとっては若干不自然感はあったと考えられなくもない
- 手を太陽にかざして綺麗な光線を表現する演出、新海誠の『天気の子』の予告にもあったけど、最近の流行りなのかな
- 砂浜で、ルカと海?が立ってて、カメラがぐいーっと引いていく演出。会場をカメラがぐいーっと引いていく演出。
- 広大な土地(砂とか海とか模様があるもの)+空(+中心に人や物)でカメラを超速で動かす演出をすると、壮大な感じが出るなーと思った
- 星空を見る時のカメラワーク。やっぱり星空を移すときはカメラを回すのがいいんだなーと思った。(『僕だけがいない街』の星空を見上げるシーンでも、カメラをぐるっとさせてた。)星空見上げる時って、首を回して全方向見るから、その体験があるから気持ちよく感じるのかもしれないと思った
- 水族館で海が翔ぶシーン、ニューヨークでクジラ?が息継ぎして戻るシーンとか、運動する物体が曲線を描いているのが、見ていて気持ちよい
- 宇宙のCGが綺麗
- CGから線画だけを取り出す技術?が使われてた演出が、手描きと調和するのにとても効果的だったように感じる。C4Dだとsketch&toonとかでできるけど、どうやったんだろうか。というか、単に手描きした線画を重ねただけかな
「さらざんまい」3話までの考察ーータークル・ラカン・芥川・ニーチェ・フロム・ナーガールジュナ
3話視聴したので、考えたことをとりあえず言語化して見たいと思う。ストーリーについての考察というよりは、この作品がどういうテーマ性を持っているかについての考察を中心にやろうと思う。
長いので最初にこの記事の簡単な要約を書いておく
「つながっているけど一人」=『つながっていても孤独』(タークル)/「手放すな、欲望は君の命だ」=「汝、欲望において譲歩することなかれ」/「河童的なつながり」=超人同士のつながり(芥川ーニーチェ)と「獺に搾取されるつながり」=末人同士のつながり/箱の入れ替わり=欲望の交換/箱田=安部公房『箱男』=「欲しいものが欲しい」/「去勢された人間」=「象徴秩序に組み込まれた人間」/愛は与えるもの(幾原)=エーリッヒフロム『愛するということ』=愛は欠如を与えること/ア=対象a(ラカン)=欠如=空(ナーガールジュナ)=縁起=皿/さらざんまい=空三昧
テーマ性
今はネットやスマホのアプリで日常的に何でもかんでもつながっている社会だが、この「つながっていること」は僕たちのこれからにおいてどういう意味を持っているのかを問いかけてみたい。「つながり」が鬱陶しいならやめてしまえばいいという人もいるかもしれないが、一回つながってしまったらもう戻れない。「つながり」が僕たちの人生に何をもたらすのかを考えてみたい。
(幾原邦彦 ぷれざんまい第1回より)
ここで、幾原監督が、インターネットやSNSが発達した現代において特に顕著に見られる「つながり」の問題に注目していることがわかるが、重要なのは、幾原監督が「つながってしまったらもう戻れない」と述べていることだ(再帰的近代)。つまり、「現代は接続過剰なので、仏教的な虚無主義によってその接続を断ち切ってお坊さんのように暮らしましょう」という風な、単純な「接続解除」「欲望=煩悩を消し去る」図式は描かれないだろう。「つながる」ことは前提として、「さらざんまい」において描かれるのは、その「つながり」の「仕方」の提案ではないかと私は予想する。
『「さらざんまい」ティザーPV_本当のことを言うよ編』のセリフは次のようなものだ
「本当のことを言うよ、君はつながっているけど一人なんだ。手放すな、欲望は君の命だ。さらざんまい」
『「さらざんまい」ティザーPV_本当のことを言うよ編』
「つながっているけど一人」と「手放すな、欲望は君の命だ」
「つながっているけど一人」というのは、シェリー=タークルの提唱した概念・著書『つながっていても孤独』を、「手放すな、欲望は君の命だ」はジャック=ラカンが提唱した「汝、欲望に関して譲歩することなかれ」(ジャック・ラカン『精神分析の倫理』下 岩波書店 2002)を意識してるのだろう。
ラカンについては後述するとして、シェリー=タークルはTED2012「つながっていても孤独?」において次のように発言している。
常に つながっていると 自意識に変化が生じます 新しい生き方を形作るのです 。一言で言えば 「我つながる ゆえに我あり」です 。我々はテクノロジーで、思考や感情を伝えることで、自己規定します。思考や感情を持つだけではダメ。前はこうでした。何かを感じると、電話がしたくなる。今はこう。何か感じたいから、メッセージを送る。「我つながる、ゆえに我あり」 という時代で 問題なのは つながってなければ 自分じゃない気がすること。自分とは思えないのです。だから、さらにつながりを求め、その過程でどんどん孤立していくのです。
つながっていても 孤立するのはなぜでしょう 孤立してしまうのは、孤独に耐える力や、1人でいられる力を養わないからです。孤独の中で自分を見つけ、その上で他者に近づき、真の関係が築かれます 。
(シェリー=タークル TED2012 「つながっていても孤独?」)
タークルは、テクノロジーの発達により、人間の自意識が「我つながる、ゆえに我あり」という段階に達し、それが人々の孤立を促していること 、そして孤立するのは孤独に耐える力がないからだと言っている。このことを踏まえると、なぜ『さらざんまい』では河童が重要なモチーフであるのかということがわかりやすくなると思う。
『さらざんまい』が芥川龍之介『河童』をモチーフにしていることは言うまでもない。『河童』において、「この国で蛙だと言われるのは人非人という意味になる」と書かれてるのと同じく、「さらざんまい」では蛙と間違われることに腹をたてる描写があるし、『河童』における獺と河童の対立(戦争)も『さらざんまい』に受け継がれている。
ここで、芥川の『河童』での「河童」がどのような存在に描かれているのかを確認しておくことは考察において重要だろう。まず、『河童』において、河童たちは、ニーチェの超人思想を体現している存在である。すなわち、善悪や人道に縛られることなく、たとえそれが人間的に見れば非道徳的なことだとしても、常に自分が幸福になることを優先する生き方し、自分で自分を肯定できるのだ。
我々人間は正義とか道徳とかいうことを真面目に思う、しかし河童はこんなことを聞くと、腹を抱えて笑い出すのです。つまり彼らの滑稽という観念は我々の滑稽という観念と標準を異にしているのでしょう。(16頁)
芸術家たるものは何よりも先に善悪を絶した超人でなければならぬ(22頁)
我々河童というものは誰の味方をするよりも先に自身の味かたをします(37頁)
道徳や正義を否定するのはどうかと思う人もいるかもしれないが、ニーチェの考えによれば、道徳(奴隷道徳)は、嫉妬心にまみれた精神的弱者にこそ尊重されるものであり、自分で自分を肯定することができる精神的強者は道徳(奴隷道徳)には縛られない。今作のテーマであるSNS社会で考えてみよう。精神的弱者=他人の評価を気にしなければ生きられない人間=孤独に耐えられない人間は、決して不道徳な行為はせず、必死に皆に好かれようとして、いいね稼ぎをしてネットでの評価を上げることに奔走するが、他方精神的強者=自分で自分を肯定できる人間=孤独に耐えられる人間は、いくら不道徳な発言をしてネットで叩かれても自分で自分を肯定できている為に幸福なのである。「さらざんまい」における河童はこのように、人間的な善悪を超越して、自分で自分を肯定できる存在として描かれているのではないだろうか。
2つの「つながり」
3話では、獺側が人間の欲望エネルギーを回収していることが明かされた。「まどマギ」ではインキュベータが魔法少女を作り出し、それが魔女になることで増大したエントロピーを回収していたが、「さらざんまい」の獺は、脆いつながり(3話)に生きる現代人からカパゾンビを作り出し、欲望エネルギーを増大させて、それを回収しているのかもしれない。
ここまでの議論を踏まえて、2種類の「つながり」を予想したいと思う。「獺側に搾取されるつながり」とその反対としての「河童的なつながり」の2つである(河童的なつながりと獺的なつながりではないだろう)。もちろんこのような簡単な2項対立が最終的に成立するかどうかはわからないが、議論をわかりやすくするための図式としてはいいと思う。
「獺に搾取されるつながり」=脆いつながり(3話)質より量(3話)のつながり、孤独に耐えられない人間によるつながり、他人の評価を気にするつながり、道徳的なつながり、自分の良いところだけを見せれるつながり(自撮り)、超人同士のつながり
「河童的なつながり」=切っても切れないつながり(1話)、量より質のつながり、孤独に耐えられる人間によるつながり、自分で自分を評価できる人間によるつながり、道徳を超越したつながり、自分の恥部も全て漏洩するつながり、末人同士のつながり
(宮台真司の最近の主張=法を犯しても守りたいと思える仲間とのつながりが重要とも類似するかもしれない)
「さらざんまい」のテーマとラカン思想の類似点
この作品はラカン理論を前提とするととてもわかりやすく理解できると思われる。まず、ラカン理論では、欲望は他者の欲望であるというものがある。例えば、「友達が欲しがっているゲームが欲しいと思う」というように、欲望は自分から出てくるのではなく、他者から与えられるものであるという考え方だ。「さらざんまい」2話のカパゾンビの欲望の対象(対象という言葉を使うあたりもラカンっぽい)は「猫」であった。猫山が欲した「猫」は猫山の彼女の欲望、すなわち他者の欲望なのである。3話のキス=モットクレーの欲望するキスもそれ自体、女の欲望の形なのだから、他者の欲望である。また、他者の欲望ならば、深い人間関係では、欲望の交換が生じうる(例えば新宮一成は『ラカンの精神分析』1章において自分と患者の夢が入れ替わったことをラカン理論によって説明している)。「さらざんまい」では、一稀、悠、燕太の欲望=箱(1話の背景に「箱は欲望」と書かれていたし、amazonを意識してる感もあるので、箱=欲望と考えてもいいだろう)が入れ替わっているが、これも今の文脈を踏まえれば理解できる。
このような「欲望は他者の欲望」というテーゼを念頭に置いて、現代のSNS社会を考える。斎藤環は、SNS社会がもたらす自意識として「欲望を持ちたいという欲望」「満たされない欲望を持ちたいという欲望」を上げている(『生き延びるためのラカン』)。1話の箱田(「箱田」の元ネタはおそらく安部公房の『箱男』であり、帰属の問題を提起しているのだろう)は、他者から奪った箱=欲望を頭にかぶることによって充足感を感じていたが、これは「欲望を持ちたいという欲望」によって他者の欲望を自分のものにしようとする行為と考えられる。また、他者から欲望されたいという欲望も生じることになる。
㋐=対象a説と、幾原作品の「愛」について
作中に多用される㋐については、まだよくわからないし、多分一つの意味ではなくて、いろいろ意味があると思うけど、私はとりあえず1話終了時㋐=ラカン理論における対象a説を提案したので、その線でもう少し議論したいと思う。なお、私は特に精神分析について専門家でもなんでもないので間違ったことを言ってるかもしれない(間違ってたらご指摘お願いします)ので、あまり真に受けない欲しい。
対象aは「欲望の原因」であり、欠如である。人間は秩序だった社会(象徴界)に参入する際に原初的な欲望を失う(=去勢される)。この時失った原初的な欲望が回帰してくるのが対象aである。以下は対象aに関わる厳密でわかりやすい説明だと思う。
ひとは、疎外と分離という二つの契機を経て初めて神経症者として構造化される。疎外とは、シニフィアンの構造(=大他者)の導入によって、人間が原初的な享楽を失い、この消失のなかで主体を表すことを指す。その結果、ひとは原初的な享楽から遠ざけられ、快原理(=シニフィアンのシステム)に従属するようになる。すると、元々あったと想定される原初的な享楽は、 快原理にとって受け入れることができないほどの過剰な快、快原理の安定したシステムを撹乱する致死的な快であることになる。
しかし、疎外において導入された大他者は、一貫した他者ではなく、それ自身のうちに一つの欠如を抱え込んだ非一貫的な大他者である。その大他者の欠如を埋めるために、人はかつて失った原初的な享楽を部分的に代理する対象aを抽出し、それを大他者に差し出す。この過程を分離と呼ぶが、この分離によって、人は大他者に内在する欠陥を認めながらも、その欠陥を対象aで覆い隠して見えないようにする二重の態度を両立させた汎フェティシズム的な態度に到達する。こうして、対象aを媒介とすることによって、享楽から適切な距離を保つことを可能にするファンタスムが形成されるのである。
「カワウソイヤァ」の「去勢された負け犬ども」は去勢され=構造化され、象徴秩序に組み込まれた人間のことを指しているのだろう。
対象aに関わり深い概念として「現実界」=カントの物自体のように、到達不可能、認識不可能な世界があり、現実界と象徴界は、対象aを媒介として互いに接続されている。「さらざんまい」の「欲望フィールド」は現実界のことだとすれば、1話で欲望フィールドが人間には見ることができないと言われていることや、欲望フィールドが見えなかった燕太が、㋐を額に貼り付けられたら欲望フィールドが見えるようになることも理解できる。これは燕太は㋐=対象aを媒介することによって現実界=欲望フィールドに接続することができたということである。(また、獺マークが立ち入り禁止と書かれていたが、獺は去勢された存在であるために、現実界にアクセス禁止ということだろうか)
1話から3話まで共通して欲望消化される時に出てくる図では、箱田、猫山、キスの輪が、無限に連結された他の輪から外れて「はじまらない、おわらない、つながらない」の3つの輪の中心に吸収されていく様子が描かれている。正直よくわからないが無理やり考えるなら、この図はボロメオの輪を意識しており(ラカン『アンコール』を参照)無限の欲望の連鎖に囚われ、つながれているけど孤独であるカパゾンビをそこから切り離して、対象aを媒介させて(対象aは現実界、想像界、象徴界の3つの界のちょうど重なるところに位置する)、精神を正常な状態へと治療する行為を行ったことによって欲望が消化されたということだろうか。
幾原監督のテーマとして「愛」の問題がある、「愛」は「恋」と対比される。「恋」とは、ゲゼルシャフト的な、見返りを求める愛であるのに対して、「愛」は無償の、無条件の愛である。ピングドラムのこどもブロイラーのシーンで多蕗桂樹が語った、ピアノが弾けない自分は愛されないという考え方が前者であり、それに反論して存在自体を肯定し、無償の愛を提供する桃果は後者である。これは幾原作品全てに通底するテーマであり、実際幾原自身も語っている。
愛って与えるものであって、フィオレは愛は奪うものとか求めるものだと思ってるんですね。愛は実は与える、ただただ与えるものだっていうことを知るっていうことで、フィオレは愛を分かるっていう話なんですけどね
『美少女戦士セーラームーンR』うさぎBIRTHDAY イベント より
「美少女戦士セーラームーンR」上映 うさぎBIRTHDAYイベント中継&劇場版 【幾原邦彦監督 三石琴乃】 - YouTube 10:00頃から
「さらざんまい」では、「欲望か愛か」というセリフが発せられるが、ここで「イクニ作品では愛が優先されるから欲望が否定されて愛が肯定されるのか」と考えるのは早計だろう。「欲望は君の命だ」という今作のテーマ性と矛盾するし、欲望と愛は結びついているからである。
ここで、欲望と愛の関係性を考えるときに、対象aは有効ではないかと思う。愛についてのラカンは『転移』において、「愛とは持っていないものを与えることだ」という定式を提出しているからだ。持っていないものとはつまり欠如である。
「さらざんまい」1話冒頭は、㋐がない世界であり、欲望の原因がなく、何の欲望も生じない世界=うつ病的な世界であるが、そこで春河が一稀に㋐を与えることによって記憶を呼び起こしている。これは㋐=対象a=欠如を与える=愛するということを意味しているのかもしれない。
また、今までの話はエーリッヒ=フロム『愛するということ』とも類似するだろう(というかこれが元ネタの一つまであるかもしれない)。フロムは「孤独」、「無償の愛=与える愛」等に触れているが、「秘密と愛」についての考察は「さらざんまい」の3人の秘密の共有と関係している可能性もある
「空」について
さらざんまいが仏教をモチーフにしているのもほぼ確実だろう。だが、私には今作のテーマ性と仏教がどう関わるかが1話時点ではあまり思いつかなかった。なぜなら仏教のニヒリズムが今作のテーマ性と矛盾すると思ったからだ。だが、龍樹(ナーガールジュナ)の『中論』的な意味での「空」を考えれば矛盾は起きない。
ナーガールジュナは、「有」を否定するとともに、「有」がない以上、当然「有」と相関関係にある「無」もありえない、と主張する
また、私は㋐=対象a=欠如と考えたが、これも「空」と関わる。
大乗仏教、とくにナーガールジュナを祖とする中観派の哲学者たちは次のように主張した。ーー何ものも真に実在するものではない。あらゆる事物は、見せかけだけの現象にすぎない。その真相について言えば空虚である、その本質を「欠いて」いるのである(sunyaという語はサンスクリット語においては「……を欠いている」という意味に用いられる)。
斎藤環は、ラカンと仏教の「空」論が、物事に実体があることを否定する点、ものとものとの関係を重視する点(「縁起」)で類似するとしながらも、セクシャルの点において異なるとしている(『生き延びるためのラカン』232-233頁)。だが、「さらざんまい」においてはラカンと「空」論を結びつけ、発展させようとしているように思える。
「さらざんまい」冒頭で出てくる、あるいは今作で多用される「円」のイメージは非常に仏教的であるが、この文脈では「縁起」と関わる。以下は『中論』冒頭の翻訳である
「[宇宙においては]何ものも消滅することなく、何ものもあらたに生ずることなく、何ものも終末あることなく、何ものもそれ自身において分かたれた別のものであることはなく、何ものも[われらに向かって]くることもなく、[われらから]去ることもない、というめでたい縁起のことわりを、仏は説きたもうた」
これが「はじまり」と「おわり」に関わるのだろう。
まとめると ㋐=対象a=欠如=空=縁起
さらにこれに皿を付け加えて㋐=対象a=欠如=空=縁起=皿
とすると、さらざんまい=空三昧(仏教における三三昧のうちの一つ)と考えることもできる。
appedix
- 承認をテーマにしていた幾原監督が欲望をテーマにするというのは自然なことだと思う。ラカンの「欲望は他者の欲望である」というテーゼはコジェーヴのヘーゲル読解から着想を得ているが、コジェーヴのヘーゲル読解においては「他者の欲望」を考えることは、最終的に承認欲求を説明することに使われるからだ。
- 次の引用は道徳と欲望をあきらめないことと神経症に関わっている。今回のテーマ性に近いだろう。
シンツィア・クロサリ・コルヴィ(2011)によれば、神経症構造をとるうつ病は「欲望に関して譲ること」の一形態であり、主体に穿たれた深淵を直視しようとしない態度、すなわち道徳的臆病さlàchetè morale(AE526) に起因する
- 思弁的実在論(SR)とかオブジェクト指向実在論(OOO)とか言っている時代に、すでにポストモダンによって(ドゥルーズ=ガタリやデリダ)によって乗り越えられたラカンを持ち出すのは時代遅れではないかという意見が出てきそうだ。確かにそれはそうだけれど、後期ラカンはドゥルーズ=ガタリやデリダに届く射程を持っていたという指摘もあるし(松本)、空論と結びつけることで、むしろ今のSRやOOOに接近することもできるかもしれない。対象aや愛といった概念から超越論的シニフィアンの回帰による否定神学的安定の構造を見て取ることもできるが、 さらざんまいによる接続はむしろ物と物の関係性、現実的な可能性に開いているとも考えられる。
- 地下鉄サリン事件の反省を掲げて仏教と心理学を絡めた動画を上げている元オウム幹部の上祐氏も「条件付の愛」と「無償の愛」という概念を提示していたりする。
長々と書いたけど、全部適当な妄想なので、話半分に聞いてくださると嬉しいです(笑)では
(8156文字)
<さらざんまい1話感想・考察>㋐=対象a説
先ほど「さらざんまい」第1話をリアルタイムで観ることができたので、考察というか、なんとなく㋐について思いついたことがあったのでメモ程度に書き殴っていきたい思います(と言ってもまだ1話だから間違っててもご容赦ください)
㋐=対象a説
第1話でやたらと出てきた記号として㋐がある。劇中での㋐の使われ方を見ていて、これは哲学者・精神分析学者のジャック=ラカンが提唱した対象a(読み:タイショウアー)のことなのではないか?と思った。
「対象a」とは端的に言うと「欲望の原因」(斎藤環『生き延びるためのラカン』筑摩書房(2012)参照)。
あるいは
他人の中に埋め込まれ、私にとって非人間的で疎遠で、鏡に映りそうで映らず、それでいて確実に私の一部で、私が私を人間だと規定するに際して、私が根拠としてそこにしがみついているようなもの、これをラカン の用語で「対象a」と言う。対象aの代表格は、乳房、糞便、声、まなざしの四つ組である。
そもそもこの作品はラカンの思想を前提にして考えるとかなりわかりやすくなるんじゃないかと思う。予告で出てきた「欲望の欲望」という概念も、「欲望は他人の欲望である」と言うラカンの有名な命題と類似するし、斎藤環『生き延びるためのラカン』筑摩書房(2012)で述べられている次の記述はかなり「さらざんまい」の主題と近いんじゃないか
……欲望は他人の欲望だ。僕はこれを言い換えて、「欲望は自分の中から勝手に芽生えてくるものじゃない。他人からもらうものだ」と説明することが多い。欲望の対象がリアルであるためには、同じようにそれを欲しがる隣人の存在が必要なんだ。そして、ひきこもり青年たちには、そういう存在が欠けている。だから、欲望の追求のために、わざわざ行動を起こす気になれないんだろう。(27頁)
携帯電話やインターネットは、あらゆる人に、多様なコミュニケーション・ネットワークに参加するチャンスを与える。そう、もはやコミュニケーションに辺境はない。誰もが、その意志さえあれば、他人とつながることができる。この変化は、案外決定的なものかもしれない。
社会が成熟していく段階の中に「物質的に満たされても、心が満たされない」という過渡的な状況がある。でも、これは要するに、ネットワークが不備な時代には、コミュニケーション弱者の孤独がいっそう深まりやすくなるということだ。現代のように、ネットワークが幾重にも張りめぐらされて以降は、こうした孤独は意志的に選択されなければ成立しなくなってくる。(28ー29頁)
コミュニケーションのネットワークが発達してみて、初めてわかったこと。それは、コミュニケーションだけで満たされてしまう人たちが大量に存在するという事実だ。[中略]そうなると、いよいよ「欲望の無根拠性」という、ラカン的な事態がはっきりみえてくる。(29頁)
いろんな進歩だの進化だのの結果、僕たちは物質的な貧困、コミュニカティブな貧困、その双方から急速に解放されつつある。それとともに、僕たちの欲望は限りなく精神分析的なものになるだろう。そう、フロイトが言ったように、それは「満たされない欲望を持ちたいという欲望」なんだ。「ほしいものが、ほしい」っていうのは、そういうこと。今や僕たちが求めるのは「満たされない心」そのものだ
幾原邦彦は、これまで社会にうまく溶け込めない青少年たちの問題を描いてきた。輪るピングドラムでは、無条件の愛情を受けることなく育ち、社会から承認されず、透明な存在(酒鬼薔薇聖斗)=入れ替え可能な存在になってしまう若者を、そしてユリ熊嵐では、同調圧力の中で透明になってしまう少女たちを。ならば今回のさらざんまいは、SNSの接続過剰によって、欲望にうまく対処できなくなってしまった若者たち、が描かれるといったところだろうか。
あと眉唾な議論だけど、ニコニコ百科辞典で「対象a」の頁を調べると、前述の引用とともにこんな記述がされていた。
他人の中に埋め込まれ、私にとって非人間的で疎遠で、鏡に映りそうで映らず、それでいて確実に私の一部で、私が私を人間だと規定するに際して、私が根拠としてそこにしがみついているようなもの、これをラカンの用語で「対象a」と言う。対象aの代表格は、乳房、糞便、声、まなざしの四つ組である。
引用元 : 新宮一成著 『ラカンの精神分析』 1995 講談社 (講談社現代新書)
(中略)
ここでひとつのイメージ
番町皿屋敷
こ、これは!?
さらざんまいの元ネタは番町皿屋敷だった?
ということは㋐=皿=対象aの可能性が微レ存?
以上。
まあ最終回まで見てから見返したら的外れに思うかもしれないけど、1話ごとにああだこうだ考察するのも楽しみの一つですよね
Vroidで作ったvrmデータをcinema4dで読み込むまで(メモ)
今現在Vroidでは作ったキャラクターをvrm形式でしか出力できないため、他のCGソフトに読み込むのには一手間かかる(今後他の形式で出力することが可能になるらしい)。
ぼくは次のような行程でCinema4dに読み込んだ
1.UnityのアセットUniVRMver4.0(https://github.com/dwango/UniVRM/releases
)でunityにvrmを読み込む(ver4.1だと次のfbx出力に失敗した)
2.Unityのアセットfbx exporterをアセットストアからダウンロードしてインストールし、vrmのキャラをfbxで出力する。
3.cinema4dで出力したfbxを読み込む
4.テクスチャの透明部分が黒くなってパンダのようになっていたので、テクスチャのアルファチャンネルを適用して修正する
5.髪や眉毛やまつ毛の色が飛んで白くなっていたので、clipstudiopaintを用いて塗り直し(photoshopでも良い)。
ボーンも生きている状態で読み込めたので幸せ